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下にちる

林しましま

「春子ッ!」
と荒げた〈おかあさん〉の声は、言いはじまりは叱咤で、言い終わりはほとんど悲鳴だった。叱るつもりで叱るのでない、庇うつもりで間に合わなかったのだと分かっていたが、こんな時に呑気にも〈おかあさん〉の白粉の下に髭の剃り残しがあるのがなんだか気になる。
 女名を名乗ったり、〈おかあさん〉〈おねえさん〉と呼びあったりするのは、そのまま、この妓楼が男に〈女〉を売る塔だからである。
 春子の目に、ホログラムの赤い花がキラキラと上がっていくのと、妓楼を囲う飾り格子の檻を透かした向こうの夜空に、
(ああ、今日の地球はまんまるだなあ)
と見えて、
(それにしてもずいぶんな時間がたってないか? こんなに考えごとをする時間が本当にあるんだろうか)
とまで思ったところで、どっと床に体を打ちつけ、倒れた。
 着物にあでやかに散り咲いた赤椿が、座敷の床で落椿のようだ。
 頬から脳天までが火のように熱いと感じた一瞬後に、激烈な打擲の痛みが襲ってきた。その痛みが、
「軍人に向かって無礼だろう!」
という怒号で、すーっと冷める。
(軍人ごっこも堂に入ったもんだ)
 月面国家に最初に軍隊を作った輩が何百年も前の軍服を復刻したところからして、もう兵隊さん遊びとしか思えない。なのに都市はそれにおもねって、ジャポネズリだとかシノワズリに傾倒している。後ろ向きだ。戦争で勝てるわけがない。
 春子は手をついて起き上がり、着物の裾を捌いて、しゃんと正座に狼藉男に向き合った。禿に切ったつややかな黒髪は指で整えるまでもなくサラリと落ちて、評判の〈東洋美人〉の顔を縁取る。
「そりゃすんませんでしたね。着物の柄ぐらいで不吉だなんだってガタガタぬかしやがる肝のちっちぇえ奴が軍人さんだなんて分かんなかったんで。あっ、お召し物が軍服だった。じゃあ、その服に謝りましょうか」
「春子ッ!」
「き、貴様!」
 今度の〈おかあさん〉のは間違いのない叱責だ。男の方は、顔は整って美しい春子の口からくり出る悪口にしばし呆然としていたが、我に返って再び手を振り上げる。そこへ割って入ったのは今日の主賓だ。
「そこまでにしよう」
「どけ! 山木! そいつは軍人を愚弄したんだぞ!」
「軍人じゃなくてお客さんをですけどね」
「なんだと!」
「よせって。今日は僕の出征祝いだろう? 君も」
と、振り返った男の顔に春子の目は吸い寄せられる。正確には目の色に。
(本当に、地球みたいな色だなあ)
 軍人や金持ちが日本名を名乗るために月面の戸籍をいじるのはめずらしくない。彼か彼の親かその前の世代がそうしたのだろう。
「君もそこまでにしてくれないかな。僕は妓楼は初めてで、こんなやりとりには慣れていないんだよ」
 微笑むと困った顔になるが、少しも困ったようには見えなかった。春子が口を開いて何かいう前に、この山木の助け舟に〈おかあさん〉が進み出て、
「申し訳ございません、本当に躾のなっていない子で。この子はどうも変わっていて、妓楼の子がみんなこうではないんですよ? ささ、この座敷はケチがつきましたでしょ。ヒトツ上のお部屋が今日は空いておりますから、そちらへ席を移して新しいお酒でやり直しましょう。ね。さあ、雪子ちゃん、朱美ちゃん、ご案内して」
 〈おねえさん〉たちが男らを囲んで、さあさあとほがらかに促す。それに阻まれて山木の制止が遅れることになった。狼藉男が春子の衿首をつかんで力任せに引いた。月の貧民層の生まれで、充分な重力を受けずに育った春子のほっそりした躰は、軍人の膂力で簡単に引き倒された。
「脱げ! その着物が気に食わん! どうせ客の前で裸になるのがお前らの仕事だろう!」
 尋常でない狂気を感じて春子は逃げようとしたが、着物から白い肩が抜け出ただけだった。床に指を食いこませて狂人の手を振りほどこうと前にのめり出たところを、山木に抱きとめられた。
「裸にって、君がこの子の旦那になるつもりか? 困るな。僕もいいなと思っていたんだ。どうだろう。祝いに譲ってくれよ」
 衿をつかんで離さない男から春子を囲い込むように、白い手袋に裸の肩を包まれ、春子はぞくりと震えた。
「僕にくれ」
 背後の男の気勢がそがれた気配はするが、着物をつかんだ手は離れない。
「なあ、女将」と山木は次に〈おかあさん〉に水を向けた。
「さっき聞こうと思っていたところだったんだ。旦那になるにはどうしたらいいのかってね」
 〈おかあさん〉は「その子さえいいって言うんなら」と強張った声で答える。
「そうか。君、春子さん、どうだろう。僕を旦那にしてもらえないだろうか。ホラ、そうだ。僕は名前に〈木〉の字があるから、二人合わさると花の名前になる。ちょうどいいと思わないかな」
 山木は笑うと困ったような顔になる。しかし、ちっとも困ったようには見えない。
「返事をもらえないだろうか」

*****

 二人で別室へ移動しても、春子は疲れ切って着物の乱れを直す気力もわかない。
「どうすんの? 飲み直す?」
「いや、酒はもういいよ。酔うのはあまり好きじゃない。それより氷をもらってくれないか」
「なんだ、かじるのか?」
「ちがうよ」
 山木は笑って自分の頬を指差した。
「早く冷やしたほうがいい。きっとあとで腫れるから」
 端末で取り寄せたロック氷を、山木が砕いて氷嚢袋に詰めてくれた。途中で小さな欠片を口に放り込んだので、「やっぱり食うのかよ」と言うと、おもしろそうな顔をして春子を見る。
「なんだよ」
「きれいな顔だと思って」
(あんたもだろう)
「そういうこと思ってる感じじゃねえ」
「それだよ。その顔から思ってもみない言葉遣いが出てくるから」
「裏声出して女言葉で喋るか? 意味ねえだろ。そんな取り繕いは」
「さ、これで冷やしなさい」
 氷嚢を渡されて頬に当てる。山木が口の中で転がしていた氷を奥歯で砕くのを見て、くちづけしたら冷たいだろうと思う。
「あんたも災難だな。出征前にこんなハズレを引かされて」
「災難に当たったのは君だろう。まあ、あれだけ言われちゃ彼もね。なんだっけな。着物の柄ぐらいでガタガタ抜かすな?」
「好きで着てんだ勝手にさせろ。短小野郎」
「まあ殴るのはよくない」
「好きなのは本当なんだ。不吉だなんて言うけど、落ちた後もきれいだろ。落ちた後の方が全然もっときれいだ。木に咲いている絵より好きなんだ。不吉って、落ちたらそれで命は終わりなのか? 落ちてもあんなにきれいなら、まだ生きてるって言っていいじゃないか」
 山木が優しげな笑顔を消しているのに気がついて、春子は少し焦った。
「悪い。こんな話」
「いや、ありがとう」
 山木は再び笑顔になった。少し困っているように見えたが、山木が夜空を見上げると、灯台の明かりが影を作ってよく分からなくなった。今日の地球は明るく大きく見える。
「僕はあそこへ落ちていくよ。この戦争は負けだ」
「そんなこと言っていいのかよ」
「誰だって分かっていることだ。君だって、軍備がまだもう少し欠けないと決断できないお偉方だって本当は。僕達はもう地球の重力に逆らえず落ちていくだけなんだ」
「あっ、あいつも行きゃあいいのに。あのいけ好かない。あんたが行くのにどうして」
「最後に責任をとる者を残しておく必要があるからね。あいつも、それが分かって気が立っているんだ」
 膝で立って詰め寄る春子を見上げて山木は微笑み、二度目に「ありがとう」と言った。
「最後に君のような人と話ができてよかった」
 そして春子の手を取り、甲にくちづけをした。敬愛の意味と分かっていたが、春子は気づくと氷嚢を落として山木の頭を抱いていた。驚いたように頭を上げた山木が、真下から地球色の瞳で春子を見上げている。

 


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​キス:手の甲 / 格言:敬愛

花:赤椿 / ​花言葉:謙虚な美徳

読み込みに少々時間を要する場合が御座います。

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